2008/7/23(水)
13. 退屈の満ちる部屋
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| 目覚めた、と言うその事実を、朔は直ぐに理解することができなかった。 ただ目覚めた時、常にそうするように傍らに手を付き身を起こす――ことが叶わない事に気付き、朔はそこで漸く覚醒した。 起こそうと腕にかけた負荷から、痛みが脳天へと響く。 「っ……!」 覚悟のない突然の痛みに、朔は悲鳴を上げる事さえ出来ず歯を食い縛った。痛みが朔に傷の存在を思い知らせ、そして傷を負うに至ったその経緯をも様々と思い出させた。 それが現実だと、思い知らせるような痛み。それは身体の痛みか、或いは。 そろりと視線を落とせば、白い単の下にきつく布が巻きつけられているのが分かる。そこにある傷に付加を与えぬ為だろう、衣片敷は腰から下にのみかけられている。肩から胸の間を通った、一文字の傷。それを朔に刻んだのは―― 「……のぞ、み……」 血の気の引いた朔の唇から、その名は意味を持たぬ音のように、ただ転がり落ちた。
「さて何から、説明して差し上げようか」 己の声を追って、歌うような男の声が朔の鼓膜を刺激する。首を動かせば鈍痛が響き、声の主を確認することは叶わなかった。だが、その声には聞き覚えがあった。記憶にある最後の声は、多分これだろう。最後の記憶は、暗く堕ち行く意識の端で聴覚が捉えた、この声での、嘲笑。 朔は沈黙した。何からと問われても、何を問うべきかも分からない。死んだと、そう思っていたが、痛みを感じ思考も可能である以上は生きているのだろう。だがどうして生き延びたのかはわからない。意識を失った後に、己の身がどうなったのかも分からない。そして何故、この声が聞こえてくるのかも。 「何、流れてきたのでな。拾わせて貰ったまでのこと」 見透かしたように、声が告げる。朔は眉を顰めた。流れた――そう、海に落ちたのだ。斬りつけられ、刃から本能的に後ずさり、そして力を失った身体は立っていることも叶わずに船べりから、海へと。 「何処かと言う問いなら……さて、何処、かな。この地にどんな名があるのかは、俺も知らん。ただ、南だ」 みなみ。と、朔は鸚鵡返しのように呟いた。クックと喉の奥で押し殺したような笑い声が響き、それを収めたその『声』は再び一方的に朔に情報を与え出した。 「神子殿の乱心のおかげで無事に落ち延びさせて貰った。その後どうなったかまでは、はきとは分からん。ふ……総大将の腕が落ち、弓使いが事切れたまでは、俺もこの目で確かめさせて貰ったが、な」 朔は小さく目を見張った。それにまた、笑い声が落ちる。朔の視界には入らないが、声の主は朔をしかと眺めているらしい。 「そして御身だけが、どういうわけか我らに掬い上げられた、と。これ以上は、俺とて何を知るわけでもないからな。教えてもやれぬが?」 何某か、言はおありか? 訪ねてくる声は、あくまで笑いを含んでいる。 朔は急激に組み上げられていく『事実』に、くらりとめまいを覚えた。
連れて行ってと、望美は言った。 そうしてその刃を、それまでの味方に対して振るった。一番近くに居た朔が真っ先に斬りつけられ、そして海に落ちた。その身を、この『声』が拾い上げた、らしい。 名も分からぬ南の地。落ち延びた。何を知るわけでもない。――そしてこの、声。
「平、知盛……なのですか、あなたは」 呆然とした呟きに、笑い混じりの肯定が帰った。
そう、と。ただそうとだけ呟いて、朔は目を閉じた。九死に一生を得たこの尼僧が梶原の姫であり、黒龍の神子だと言うことは、有川将臣からの情報で知盛も弁えている。だからこそ、手当てを命じ己の房にわざわざ置いた。 こちらに迎合したその瞬間に、白い龍の神子は知盛にとっての価値を喪失した。己が陣営を男に迷って裏切り、刃を振るっての手土産まで作るようなそんな雌になどどんな価値があろうか。 そしてその無価値な神子に、更に無価値と斬り捨てられた女。だからこそ、生かして見たかった。嬲る為に。 だからその静穏なほどの沈黙は、知盛の予想と大きく外れた。もっと絶望を、もっと動揺を。揺らぎ乱れる感情を露呈するはずだろう。 「何某か、思うところはおありではないのか?」 焦れて問いかけると、朔はゆっくりと瞼を押し上げた。 「何も。ご存知でしょう。我が兄もまた、一度仕える先を変えているのです。何を言えるというのです? そのようなものを懐に入れていたと、それだけの話でしょう。その時点で既に私たちは負けていたのです」 「詰りは、されぬと?」 「今更。己が目の曇りを更に声高に言い触れて回るようなもの。生憎と私の矜持はそこまで低くはありません」 「俺が誑かしたとも、言われぬか?」 「誑かされるような者であったと、言う、それだけの…………」
こと。 そう続くのだろう、恐らくは。しかしそれは声にはならなかった。ぼろりと、大粒の涙が朔の瞳から零れ落ちる。嗚咽を漏らすでなく、ただ涙だけが女の頬を濡らす。
抑えた感情が、それでも溢れて涙として零れ落ちているのだろう。
静謐な、静穏な、激情。 なんと――高雅か。
「ならば御身も誑かされて見ては、如何か……?」 「嬲るつもりで私を拾い上げたのでしょう? 誑かすも何もないのではなくて?」 「く……聡いな。その通りだが、俺の気も少しは変わる。嬲るなら、誑かした後にしてやろうよ」 「……何が言いたいのです?」 「御身の目に映る俺の価値によっては、誑かされた者への想いも変わろう。誑かされるようなその程度の、から、誑かされても無理はないと、そう思えるかも知れぬだろう……?」 「偉く図々しい物言いね。それほど自信がおありなのですか」 「少なくとも、価値なら白龍の神子殿を凌いで差し上げようよ……?」
ん? と促されても朔は答えなかった。流れる涙を拭う事もせず、再び目を閉じた。疲れたのだろう。
嬲る為の花の価値が鮮やかに変わった。 その花の咲いた部屋の価値もまた、ただの退屈を押し込めた場所から、鮮やかに変わる。
この高い矜持の花にとっての己の価値もまた、鮮やかに変えてやりたいものだと、眠る女の顔を眺めて知盛はほくそえんだ。
漣々二十題
No.67 |
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